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2013-12-16

ごちりとうさん (37)

西門家は偉大な人を手放してしまいました。



スタートから折り返しの年末まで、まちがいなくこのドラマの主軸であり強烈な印象を残したのは間違いありません、西門和枝姉さん、堂々の退場でございます。

そこで我々「朝ドラ学部」としましてはその偉業を称え、年始から始まる後半においてもその存在感を忘れないため、また待望される再登場を祈念して、ささやかな食事会を催すことにいたしました。

ここはもちろん和枝さんの好物「鰯」を食べるべきだろう、そしてお惣菜を買ってきて済ませるなどという準備を和枝姉さんが許すはずもないだろう、「始末」してこそ「ごちそうさん」、ということで、今回は
鰯のつみれを作って食べます。

そうです、和枝さんが鰯を調理しながら、大粒の涙とともに全てを言葉にする、あの名シーンを再現するのです。

朝ドラを楽しんでいる人もあまちゃんが終わってからは見ていないという人も、和枝ねえさん派もめ以子派も、年の瀬に朝ドラを肴にして、皆で食卓を囲んで「ごちそうさん」の話でもしようかと思います。

参加に関してのお問い合わせは「岩戸山ほぼ2畳大学」から改めて案内させていただきますので、どうぞお楽しみに。


ーーー基本情報ーーー

「朝ドラ学部プロデュース 西門和枝さん記念 イワシを始末する食事会」

イワシを自分たちで洗ってさばいて、つみれを作って食べませんか。
その他イワシを使った料理なども用意します。

とき:12月27日(金)19:00より
ところ:AKIKAN 京都市下京区岩戸山町440江村ビル3F

2013-12-11

ごちりとうさん (36)

録画が溜まってしまいましたが、復帰しました。

ちりとてちんは「師匠の苦悩」とくに、女弟子をとった草若の戸惑いが重要です。喜代美を弟子に取る時に父親に向かって「これから大変だっせ、わたしも、あんたも」という言葉がありましたが、それはこういうことだったのです。

女の子はどこまでいっても母親と仲良しこよしなんですね。それは女の目線でみればそうではない、という意見もあるのでしょうけれど、仲良しこよしの意味合いというのは一定の尺度で測れるとは限らないのです。

ごちそうさんの西門家の姿は、なんだか複雑で、仲良しこよしとは一概には言えないかもしれません。けれど「幸せの形は家族それぞれ」という至極まっとうでシンプルな解答をドラマにしています。正蔵さんの「帰らんのがせめてもの筋や」という生き方はやせ我慢なのかもしれませんが、家族のためであれば何でもできるという考え方のバリエーションの一つです。

その結果としての正蔵さんは、中身の無い、実のない、女にだらしない人物であればあるほど、西門家のまとまりは強くなります。しかしその弱さを認めているのも西門家ですし、西門家でなければ正蔵さんとつながってはいられません。だから今の西門家というのはすごく安定しているように感じられました。

私が繰り返しに「風のハルカ」の再放送を主張するのは、現代において「家族とはどういう姿をとるのか」ということには正しい解答はなく、常に変化するものだということを見直す時期に来ているということであって、黒川芽以ちゃんと宮嶋麻衣ちゃんと高畑充希ちゃんと、家族になって義妹にするなら誰がいいか、とかいう妄想を繰り広げたいわけでは決してありません。


2013-12-03

ごちりとうさん (35)

希子ちゃんがどうしてこんなに可愛いのかを考えてみました。

私が思うのは、彼女の喋り方にあると思います。
気弱で話すのが苦手、そういう人物像をよく表現しているのがセリフの語尾に向かって徐々に薄く小さくなっていく声づかいに感じられます。




それでいてこれだけの歌唱力ですので、魅力に厚みが感じられます。




歌い出し「氷、氷、氷なのは間違いないのさ」
の、「ないのさ」の息が漏れながら歌っている感じ、これが普段のセリフでも希子ちゃんの元来の気弱さが抜け切らない部分がよく出ていて、守ってあげたくなってしまうんですね。


2013-12-02

ごちりとうさん (34)

今日はちょっと「ちりとてちん」のほうに絞ってお話させていただきます。
ごちそうさんは正直な所、あまり筆者が解説する部分も少なくなって参りました。

喜代美は弟子入りを認められ、内弟子修行を始めることになりました。住み込みでいろいろと経験していくことになるのですが、草若師匠からは大切なお話がありました。

落語家の修行をするにあたって、もちろんですが自分で稼げるようになるまではお給料のようなものはもちろん無いし、収入はありません。そして住居代はかからないのでタダです。落語を教えてもらう稽古も、お金を取りません。

いぶかしがる糸子に草若は言います。
「落語はみんなのもんです。お金をとって教える道理がおまへん。」
落語は「オープンソース」だと言っているわけです。

オープンソースという言葉を聞いたことがあるでしょうか。コンピュータープログラムの世界で始まった考えで、プログラムを作るためのもっとも重要な「ソースコード」といわれるプログラム本体を、公開=オープンにする、というものです。

つまり落語で言えば、落語演目の筋書き、セリフなどの脚本部分は全て公開されており、誰でも見たり知ったりすることができるのです。

公開されているということは、違う落語家が同じ演目をすることも当然あるわけです。世の中にはソーシャル・ネットワークというサービスがあちこちにありますが、それらの中にもオープンソースなプログラムは含まれています。こうしたものは無料で配布されるアプリとして人々の手に渡ることも多いです。こういうものをフリーソフトと読んだりします。

オープンソースやフリーソフトは共有の財産である、という考え方の他にも私は「ものにではなく、人や技にお金を支払う」という考えがあるのだと思っています。

ITやコンピュータの世界には「無料」のものが沢山あります。しかし、無料があたりまえだというわけではないのです。

落語家たちも、元は無料のような演目に、ほとんど舞台装置のない演劇やオペラなどに比べればお金のかからない公演をします。しかし落語は「もの」を見せているのではなく、元はタダのものを「いかに面白く、魅力的に、惹きつける技をもって、演じているか」ということを商売としているのではないでしょうか。

ネットのサービスがユーザーの動向を調べているというと「気持ち悪い」といわれることがありますが、落語家は舞台を経験して「あの時、受けがよかったな」とか「あの部分、いまいち客の反応がわるかったな」ということも反省して次の公演に活かしていくわけですが、そういうユーザーの動向を研究することを気持ち悪いという観客はいるでしょうか。それもまた技術です。

我々プログラマーも、伊達や酔狂で無料のアプリを作ったりしているわけではありません。タダで当然、不具合があったり、ちょっとサービスがつながらなくなったり、UIの変更が気に入らないと、天狗芸能の鞍馬会長のように「アホ!カス!死んでまえ!クビじゃ!クビがイヤやったら死ぬまでタダ働きじゃ、このボケ!」と怒鳴っている人がよくいます。

落語家は観客が育てる部分もあると思います。それは演者と観客が同じ演目の内容を共有しているからです。こうしたほうがいい、ああしたほうがいい、あのやり方がいい、こっちのやり方がいい、そういう風に叱咤激励されてこそ、ソフトウェアも育っていく、それは同じカルチャーだと思います。

僕自身はプログラムはカルチャーだと思っていますし、色々な人がいろいろな方法で実現しているからこそ、面白いものだと思っています。
作る人も、見る人も、使う人も、皆が一緒になって考えられるカルチャーっていうのはいいな、ということを、草若師匠の言葉を聞いて考えました。